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2012/3/9 感想を書きました。


「人はいかに学ぶか 日常的認知の世界」稲垣佳世子、波多野誼余夫 中央公論社 中央新書 907 1989年 1月25日発行

「学ぶ」という言葉で連想する「学校」での「勉強」のイメージは、「叱られる」「競争させられる」「強制させられる」といった快くないものだという人が多いのではなかろうか。近代的な学びの場としての学校に設けられた不快、苦痛を伴う学習プログラムの背景にあるのは、本書によると、人はなまけものであって、自発的に学ぶということをせず、学習能力において有能ではないという 1章「伝統的な学習観」である。だが、はたしてそうだろうか。本書は心理学の研究によって、そういった「伝統的な学習観」に異を唱えてゆく。

以下、各章のタイトルを「」内に入れながら内容をまとめてみる。2章、人はどんどん自発的に「現実的必要から学ぶ」。3章、人は「知的好奇心により学ぶ」。4章「ことばや数を学ぶ種としてのヒト」には、「認知的制約」によって言葉を学びやすくするしくみが備わっている。基本的な計数行動にも「認知的制約」の働きが認められる。我々が日常生活で示すのは 5章「文化が支える有能さ」である。我々の文化によって与えられる道具や施設は、文化的約束事によって我々がたやすく扱えるように配慮されているのである。6章「文化のなかの隠れた教育」が知らず知らずに我々に学習をさせている。7章、集団に「参加しつつ学ぶ」ことが、知的好奇心を高め、理解を深くする。8章、新たな課題は、それまでに獲得した「知識があるほど学びやすい」、もちろん、9章、そういった「日常生活のなかで学ぶ知識の限界」があることも、わきまえる必要がある。以上に見たように、人は必要や好奇心からどんどんと積極的に、文化に支えられて能率良く学ぶことが出来るという 10章「新しい学習観にもとづく教育」が求められるのである。

この本が書かれたのは、1989年だが、それまで、私の子供時代、1960年代から 1970年代にかけても、誰もが古い「伝統的な学習観」のみを主張していたわけではなく、心ある人たちは、楽しいほうがうまく行く、楽しく学べるのが良い、といったような考え方を唱えていたはずだ。私自身、いつのまにか、そういう学習に関する哲学のようなものを身につけていたからだ。例えば小学館や学研の学習雑誌の編集ポリシーというのも、楽しく学習するというものだろう。私自身で言うと、当時特に流行ったスポーツを中心とした根性主義への反発のようなものもあったかも知れない。また、大学で、ちょっと社会学をかじった私にとっては、文化が人々の学習を支援する、というのもごく当然に感じられる。

だから、この本の主張は、それほど目新しくは感じなかったが、89年になって、こういう本が出るということは、まだまだ社会には「伝統的学習観」がはびこっているのだろう。地味な研究観察が述べられている、特別面白いということはない本だが、こういう地味な研究と解説は必要であって、広く読まれて欲しい本だ。世の中において「新しい学習観」が当たり前となって欲しい。

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